福岡の歴史的変遷と現状-후쿠오카의 역사적변천과 현재의 모습
- 최초 등록일
- 2009.06.03
- 최종 저작일
- 2009.06
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소개글
일본의 국제적 도시 후쿠오카.
후쿠오카가 역사적으로 어떻게 변화하여 지금의 국제적 도시가 될 수 있었는지, 그리고 그러한 역사를 바탕으로 지금의 후쿠오카의 현 모습을 알아본다.
목차
1.福岡・博多の歴史的変遷
1)奴国と金印
2)磐井の乱と那津官家
3)防人と大宰府
4)鴻臚館
5)遣唐使
6)博多商人と日宋貿易
7)元寇
8)日明貿易と大名による争奪戦
9)博多の復興と太閤町割り
10)福岡、博多双子都市の誕生
11)福岡市か博多市か
2.福岡の現状
1)昭和30年以降の高度成長期
2)現在-九州、西日本、アジアにおける交流拠点をめざして
参考サイト
본문내용
1.福岡・博多の歴史的変遷
1)奴国と金印
博多近辺は朝鮮半島や中国大陸に最も近いという地の利に恵まれ、稲作をはじめとする弥生文化がいち早く発展した地域です。縄文遺跡は比較的少ないですが、弥生文化の遺跡は豊富で、板付遺跡では縄文地層と一緒に水田跡が発見され、国内で最も早くから稲作が行われていた地区だとわかります。西区の吉武遺跡群では弥生時代の墳墓群が多くの鏡や青銅器、勾玉など、豪華な副葬品と一緒に見つかっただけでなく、弥生前期としては初めての、「高殿」と呼ばれる大型建物の跡が発見されました。
紀元前108年、前漢が、現在の平壌付近に楽浪郡を設置すると、前漢の東アジアの窓口となり、日本も大陸との交流が盛んになりました。「魏志倭人伝」に記されている奴(な)という古代国家は福岡市にあったのではないかと言われ、「後漢書」には西暦57年、時の皇帝・光武帝が奴国(なのくに)の使者に金印を授けたと記されています。当時の漢は金印を相当の実力者しか授けておらず、奴国は倭国の中でも実力を認められていたことがわかります。そして238年には邪馬台国の女王卑弥呼が魏の明帝(めいてい)から「親魏倭王」の金印を与えられてます。
2)磐井の乱と那津官家
日本書紀によると、527(継体21)年、筑紫国造・磐井が任那に向かう大和朝廷軍を妨害したことをきっかけに大和朝廷との衝突が起こり、御井郡(みいのこおり)(現在の御井郡付近)の戦いで、大和朝廷軍が勝利をおさめ、乱は終結したとあります。この時に磐井は新羅の支援を受けていたという説もあります。その後、536(宣化元)年、大和朝廷は博多湾岸の那の津に大宰府の前身である那津官家を作りました。これは、後に築紫の官家(つくしのみやけ)、筑紫大宰(つくしのたいさい)などと呼ばれ、大宰府の前身でもあります。
大宰府は特別な地方官庁で、九州全体の統轄と外交・軍事を担当し、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれました。「日本書紀」によると、609(推古17)年、常駐官として筑紫大宰(つくしのおおみこともち)がみえ、中国の隋や朝鮮との外交折衝にあたっていたとあり、「大宰」の名が初めて現れます。
참고 자료
http://toumyou.hakata.net/history.html
http://www.pref.fukuoka.lg.jp/f08/gaiyou-ayumi.html