植民地時代文学と在日文学 ー湯浅克衛の「カンナニ」とキ厶・サリャンについてー
- 최초 등록일
- 2014.07.14
- 최종 저작일
- 2013.05
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소개글
「カンナニ」를 통한 식민지 문학과 재일 문학의 비교를 쓴 논문입니다.
부족한 일본어 실력으로 썼지만 일본인 교수한테서 호평을 받았습니다.
「カンナニ」는 알려진 내용이 없고, 내용 이해에 대해서는 전문적이지 않지만
이런 시각도 있다는 것을 참고로 봐주시면 좋겠습니다.
목차
1. 植民地時代文学と在日文学
1) 闘争に対する認識の違い
2) 内鮮一体に対する認識の違い
3) 言語統治に対する認識の違い
2. 結論
본문내용
1. 植民地時代文学と在日文学
植民地時代、日本人は朝鮮をどう見たのであろうか。
日本人作家が描いた植民地の朝鮮の心像と風景はどうだったのか。
もう、韓国社会も文化的観点から他者の目に映った自分の国を見る必要があると思う。
日帝強占期以後、植民地の朝鮮に多くの日本人たちが移住して生活した。そんな状況の中でいくつかの日本人作家たちは本人の直接ほかは間接的な生活体験をもとに朝鮮を描いた作品を発表した。これらの作品は日本人たちが残した日帝強占期に関する歴史的、政治的記録とは違って当時の朝鮮社会の風景とその時代を生きていた人たちの姿が文学的筆致で精密に描いている。日本人作家という限界点を抱えていても朝鮮が見逃した部分まで映ってくれる生々しい報告書とも言えるし、またわれわれのもう一つの子画像と言えるだろう。
しかし、日本人作家という限界があるので、目に見える悲惨と差別を描くことだけではなく、その中で起る革命の動きと被支配者が抱えている内的葛藤などを繊細に描くことは大変むずかしいそうだ。それが植民地文學が持つ限界点だと言えるだろう。その一方で、在日文學はどうだろうか。在日文学は朝鮮人が日本に行ってそこで書いた作品を在日文学と言う。在日文学は植民地時代から書かれて支配者と被支配者の葛藤や対立、そして植民地現実状況を訴える文学もある一方、現代に進めては自分のアイデンティティーを探し求める方向まで多様化されている。前者の場合は植民地時代の文学が見逃した繊細な内的葛藤をもっとくわしく描写できると思う。
1920・30年代植民地朝鮮を向けにした作品の中では芥川隆之助、中島敦、そして湯浅克枝の作品がある。特に、湯浅克枝の作品「カンナニ」についてもっと調べてまたは在日文学に関しては在日文学の草分けと言えるキ厶・サリャンと現代の在日文学を通じて植民地文学と在日文学との関係について述べる。また、この論文ではこのことについてはほかの植民地時代の文学は扱わない。
<중 략>
1. 植民地時代文学と在日文学
3) 言語統治に対する認識の違い
言語に対する考えにはどんな違いがあるのか。内鮮一体のための手段で言語での統治方法について湯浅は「カンナニ」でこんなふうに描いている。
「「タンシンはお前のことよ。朝鮮語おぼえなさい。わたくしが日本語話せるように。
참고 자료
夏目漱石から村上春樹まで, 著者:韓国日本日文学会 2003/12/12
植民地日本語文学論, 著者:神谷忠崇など 2010/10/8
カンナニ, 著者:湯浅克枝
天馬, 著者:金史良
GO, 著者:金城一紀
湯浅克枝の朝鮮認識と内鮮一体志向研究, 論文
황석연の韓国名短編100選, 著者:황석연